前回(パート1)のエントリーはこちら
http://d.hatena.ne.jp/affiliate_with/20070911/1189504747
某出版社某局某広告部門とのいろいろである。
前回は、遅刻の実態を特に酷かったものについて紹介した。
今回は「吝嗇」の実態を少し述べる。
言うまでもなく、フリーライターには月給がないし、諸手当がない。
一方、取材原稿の依頼主のほとんどは給与所得者であり、交通費や出張手当などが別途、支給される。
このため、両者に意識のズレが生じることがある。
ズレがひどくなると、軋轢に至る。
理由その2)吝嗇
2005年8月に、某素材メーカーのユーザー事例取材を依頼された。場所は栃木県下都賀郡の某家電メーカーである。東京駅を基準とすると、取材地との往復に、相当な時間と交通費がかかることは、想像がつくだろう。そこで交通費の支給について問い合わせると担当者は「出せない」という。
このときは弱気な自分だったので、我慢した。すなわち往復交通費のX千円が自腹となった。ちなみに往復の所要時間は4時間ほどだった。
それからしばらくは何もなかった。しかし、2006年になって同様の事例が増え出す。
2006年6月に、某電子部品メーカーに対する記事体裁広告の企画を作成するよう頼まれる。報酬金額の交渉段階で「企画が不採用になった場合は、報酬は払えない」との説明を受ける。内心は呆れた。しかし引き受けた。この時点で相手先は重要な取引先となっており、断るとその後の受注減(すなわち生活苦)につながりかねないとの危惧からだ。
企画は採用になり、原稿の発注がきた。原稿料はもらえた。しかし相手先が別途提示した企画料は雀の涙だったので、断ることにした(なおその後、泥仕合に突入した段階で企画料を請求し、請求金額通りに支払ってもらった。3カ月ほど後のことである)。
2006年7月。原稿料値上げの打診に踏み切る。実は2006年前半の段階で、この相手先の原稿料は広告仕事の中では最低水準となっていた。2005年から2006年にかけての営業努力が実り、広告関係の受注が増えるとともに、原稿料単価が上昇していたからである。
打診に踏み切ったのは某セミナーの懇親会会場である。某セミナーから記事体裁広告の原稿を書く仕事を受注し、会場に来ていたからだ。担当者も懇親会会場にきていた。
値上げの打診に当たっては実情を説明した。原稿料が広告の中では最低水準であること、原稿料の高額な仕事を優先させる可能性が高いことだ。
しかし、説明は上手く作用しなかったようだ。相手の答えはこうだった。
「原稿料が貴方よりも高額なライターはいる。しかし発注の回数は凄く少ないよ」。
この答えを自分は、「原稿料をこのままにするか、仕事を(ほとんど)もらえなくなるか、どちらか選んでね」と解釈した。相手は自分の要求に直接答えず、婉曲な表現を使った。つまり解釈しろということだ。
気力が抜け落ちるのを感じつつ、黙って話題を変えるほかはなかった。
(9月17日追記:「気力が抜け落ちた」理由は、値上げが受け入れられなかったからではなく、回答のプロセスと様式の杜撰さにあります。念のため)
2006年7月下旬。某半導体ベンダーの広告シリーズ企画が持ち上がる。記事体裁広告を4〜5本作成し、雑誌とウエブ・サイトの両方に掲載する企画である。そのなかで一部の取材と原稿執筆を担当するよう、依頼される。今から振り返ると、この件が大きな亀裂の始まりだったようだ。
取材に関西出張が入っていた。場所は兵庫県で、片道4時間の行程である。旅費交通費は支給される。しかし交通費以外の手当は一切出ないという条件だった。旅費交通費以外はライターに支給しないのが慣例だとの説明がなされた。
これには少し困った。旅費交通費を依頼主が負担するのは常識である。それが嫌なら、大阪や神戸などに在住しているライターを雇えばよいのだ。
このとき他社の広告仕事では、出張時に日当が支給されていた。だから、自分にとっては出張手当の支給が慣例だった。両者の認識に大きなズレがあった。「旅費交通費は出すんだから我慢してよ」との態度にもカチンときた。
それでも結局、(見掛け上は快く)受注することにした。もちろん、相手がお得意様だからであり、仕事を失うことによる生活苦が怖いからである。
この仕事の最初の取材が担当者の大遅刻に至った件は、すでに述べた通りだ。
そしてこの「某半導体ベンダーの広告シリーズ企画」の仕事から、自分は降ろされる。理由は、名刺に書いてあった肩書「アナリスト」に本社サイド(この半導体ベンダーは外資系である)が反応し、ライターとして契約できなくなったというものだった。この企画では事前に、半導体ベンダーの要望という理由で名刺や職歴などを提出させられていたのだ。
再び脱力感に支配されるとともに、日当ゼロの関西出張がなくなったことに少しだけ安堵した自分が、そこにいた。
急に空いた日程を別の仕事で埋めるべく、営業活動に奔走し始めるのは、その数時間後である(泣)。
(この項はまだ続きます)