Electronics Pick-up by Akira Fukuda

日本で2番目に(?)半導体技術に詳しいライターのブログ

「技術ジャーナリズム」とは何か(1)、のはずがこんなことに(恥)

以前から書こうと思っていたテーマなのですが、いつまでたってもまとまらない。
まとまらないと書けない。ずっとそう思っていたのです。しかし。突然、降りてきました。開き直ればいいのではないかと。つまり、まとまらないままで書き始めたらどうなるのだろうか、と。


これは一種の実験ですので、体系的な説明は期待しないでください。あらかじめ注意しておきます。すみません。思いつくままに書いていくとどうなるかの実験です。その覚悟があるかた、あるいは脈絡の無い説明が出てきても怒らないかたが、以下の文章を読むとみなします。ああ、すでに文体が乱れている。許してください。それでは、行きますよ〜。



「技術ジャーナリズム」とはなんでしょうか。そもそも「技術ジャーナリズム」という呼称をマスコミの世界で打ち出してきたのは、日経マグロウヒル社(当時)だと考えています。自分が大学院を修了して日経マグロウヒル社に入社することが決まったのは、1983年の秋ころでした。入社が内定したあと、会社説明のパンフレットが自宅に送られてきました。パンフレットに出てきたのが「技術ジャーナリズム」という耳慣れない言葉です。


技術ジャーナリズムの例として説明があったのは、技術ジャーナリストの一日、といった仕事生活のストーリーでした。国際会議をどんなふうに取材して原稿を書いていくのかを物語風に描いたものです。主人公は技術雑誌「日経エレクトロニクス」の主力記者さんで、自分が入社したときは同誌は副編集長(俗称は「デスク」)でした。


ストーリーは残念ながら、あまり覚えていません。印象に残っているのは「国際会議の取材とは忙しいのだな」ということくらい。むしろ記憶に残っているのは、主人公のデスクから直接いただいた感想です。「スーパーマンみたいに書きやがって」と本人は私に語ってくれました。あ、間違っているかも。「あれじゃスーパーマンだよ」かも。とにかく単語「スーパーマン」だけは間違いないです。スーパーマン。そうなのか。自分はスーパーマンになるのか、などとは当時はまったく思いませんでした。理解したのは「誇張して書いてある」ということくらい。当時の自分はなんにも知りませんでしたから、感想もありませんでした。それくらい、なにも知らなかった。なあーんにも、です。


そもそも入社した当時は社会人としての基礎知識がまったくありませんでした。ジャーナリズムうんぬん以前の問題です。社会人未満で、ジャーナリスト未満ですから、「技術ジャーナリズム」とか言われても、まったくわかりません。というか、わかったら天才です。それが1984年4月(入社した年月です)の自分でした。


当時の自分はとても恵まれていました。なぜかというと、技術ジャーナリズムを具体的に体現している人が先輩記者として数多く、存在していたからです。ベテランの「技術ジャーナリスト」がごろごろしていた。それが1984年4月当時の日経エレクトロニクス編集部でした。


当時の編集部は編集長1名、副編集長4名(うち1名は制作担当)という態勢でした。記者の書いた記事を査読する副編集長(デスク)は3名。それぞれに大まかな担当分野が決まっていました。コンピュータとか、通信とか、電子デバイスとか、です。でも新人は原稿を書いても、最初に査読するのはデスクではないことが少なくありませんでした。始めは中堅どころの先輩記者が査読します。先輩記者がオーケー(合格)のサインをすると、ようやく、デスクが読んでくれます。いきなりデスクが読むというのは、出稿本数の半分以下だったように記憶しています。


なぜかというと、原稿の出来上がりがあまりに悪かったからです。あまりに完成度の低い原稿なので、デスクが最初に読んでしまうと時間が掛かり過ぎる。デスク本来の作業である先輩記者の原稿チェックに割く時間が大幅に減ってしまう。そのような事態を割けるために、まずは先輩記者が査読して完成度を高めておくということです。


それで最初の、つまり、ジャーナリスト、厳密な肩書は記者兼編集者なのですが、とにかく、見習いとしての最初の原稿は掲載までに何回の書き直しが必要になったのか。実は、覚えていません。何があったのかは覚えているのですが、どうなったのかを覚えていないのです。すみません。覚えていることを書くと以下のようになります。


自分と同時に編集部に配属された新人は2名でした。合計で3名の新人が4月中旬に編集部に配属されたことになります。なにがどうなるのかが分からないままに、仕事らしきものが始まりました。最初は、デスクが記者会見に新人3人を連れて行きました。記者会見に参加して、主催企業の広報課長に挨拶して、編集部に戻りました。戻ってから、3名全員に記事を書くことがデスクから命じられました。記事の分量は17字×8行ほどです。当時の日経エレクトロニクス誌では最も短い記事です。「産業ニュース・ダイジェスト」というニュースを集めた2ページのコーナーでした。俗称は「サンダイ(産ダイ)」です。なお今(2015年9月号)の日経エレクトロニクスにはこのような欄はありません。


17字×8行というのは、とっても短い記事なのです。当時はそれこそ四苦八苦といいますか、七転八倒といいますか。苦しみぬいて「記事らしきもの」を書きました。とにかく何を書いて良いのかが分からない。雲をつかむような、という形容がぴったり当てはまる心境でした。


恐る恐る提出した原稿(黒鉛筆で原稿用紙に書いていました)をデスクは無言で、赤鉛筆で修正していきました。修正しています。修正しています。まだ修正しています。原稿用紙がわずかな間に赤く染まっていきます。嗚呼。数分後に戻された原稿は真っ赤でした。赤鉛筆による修正や疑問点などが原稿用紙全体に数多く散らばっています。これを治すのでしょうか。「すみません。どうやって直したらよいのでしょうか」などとは質問しませんでした。とにかく自分なりに考えて直します。苦しいです。


自分にとって最初の原稿はこんな感じでした。原稿がどうなったかは覚えていません。掲載されなかったとは記憶しているのですが。なんとなく、3名の中で最も出来が良かった原稿が掲載されたとおぼろげながら。自分の原稿ではないことは確かです。なぜなら、自分の原稿が掲載されたのだったら「絶対に覚えているから」です。忘れることなどありえません。


いや、嘘です。すみません。忘れてます。自分が書いた初めて掲載された記事。たぶん「新製品」のコーナーに掲載されたと思うのですが、覚えていません。うわー。非道いですね。覚えているのは、とっても苦労した、とある新製品紹介記事のことです(次回はたぶん、そのことを書きます)。



なにか、自分語りになっていますね。うわー。これはどうしたことか。技術ジャーナリズムはどうしたんだ!!! ストーリーが脱線転覆事故ですよ。絶対にこんな原稿じゃ通りません。でも、いいんです。いや、まずいですね。本来のテーマである技術ジャーナリズムに戻すべきか、このまま暴走すべきか。次回がどうなるのかは、今はまったくわかりません。


それでは、次回にお会いしましょう。ちゅどーん!!(出典:うる星やつら