Electronics Pick-up by Akira Fukuda

日本で2番目に(?)半導体技術に詳しいライターのブログ

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白い嘘をついて生きてきた


社会には「白い嘘」がまん延している。
白い嘘とは何か。こちらを参照していただけると分かりやすい(求人広告はすべて、白い嘘と呼んでさしつかえないだろう)。
事実なのだけど、誤解を招く表現。
書き手あるいは主体にとって都合のよい事実だけをならべ、都合の悪いことは書かないでおく表現。
悪意のない嘘。こういったものが白い嘘と称される。


自分は雑誌の編集に20年ほど携わってきた。記者をやり、デスクをやり、編集長をやった。編集記者をやりたかったのは、「真実を知りたい」ことと、「真実を伝えたい」という欲求からだ。切ないほどの強い欲求があった。いや、今でもある。
20年の編集部生活で得たのは、報道機関といえども(当然だが)世の中のほんの一部しか知りえないことと、ほんの少しの隠された真実である。ほんの少しだけれども一端の真実を知ることができたのは、恵まれていたと思う。雑誌の看板があってこそ、ふつうでは会えない方々に会い、話を伺うことができた。


しかし一方、すべて真実を伝えてきたかというと、とてもとても疑わしい。書かないまま済ませてしまった真実のなんと多かったことか。相手の痛いところはつかずに、そこそこで済ませる。そこには業界との馴れ合いが、確かに存在していた。きれいに(まさに白い嘘だ)言い換えれば、「共存共栄」だろうか。それは程度の差こそあれ、専門誌にはつきものの世界であり、現在も生き続けている。企業トップと(無意識に)馴れ合った結果、ある雑誌の記事は「月曜の朝礼」と企業の現場クラスに揶揄されていたくらいだ。


著名雑誌の編集は建前(読者に役立つ記事とか、ジャーナリズムとかの類い)を重んじるので、意識して美辞麗句を使う広告よりも有る意味、性質が悪い。広告は読むほうも疑ってかかる。編集部の記事も、読み手は100%信じている訳ではない。しかし、読み手は「理想的には100%信じられる記事」を編集部に望むことがある。ここが大きな違いだ。本当は多くの編集部こそが「白い嘘つき」なのだが。


自分が社会人になった1980年代半ばには、発表モノの記事は少なかった。現在では、80年代とはとても比較にならない膨大な量の情報が、雑誌や新聞などの報道機関に向けて日々吐きだされている。受け手である記者が情報の内容を吟味している時間は、驚くほど少ない。報道機関に向けて吐きだされる情報(リリースや記者発表会などの情報)はほぼすべてが、「白い嘘」で固められている。それを文章はいくらか違うものの、視点としてはそのままで執筆する。そういった記事(=白い嘘)が、かつてないほど増えているように感じる。


お人好しは記者には向かない。記者に適性があるのは疑り深く、白い嘘のウラを見抜ける人間である。記事を読むと、白い嘘を見抜いて大人の事情を踏まえた記者の記事と、お人好し記者の記事ははっきり違う。お人好し記者の記事からは、書き手が子供であるかのように感じる。社会人の読者には、白い嘘の記事はすぐに見抜かれてしまう。そういった稚拙な記事が増えてしまったことが悲しい。